5年前のこと

今日で東日本大震災から5年経つのですね。
震災の日、私は勤め先の自分の席にいました。

広報の仕事をしていたので、外出することも多く、その日も出かけてこようか迷っていましたが、やりかけの仕事にキリがつかずに出かけられずにいました。

そしてやってきた、14時46分。

感じたことのない地響きのようなものを感じ、その後揺れが来たと思います。

同じ職場にいた仲良しの同期と、机の下にもぐろう、と言ってうずくまりました。

耐震補強工事が終わっている建物だったこともあり、上から物が落ちてくることもなく、揺れがおさまるのを待ちました。

職場ですぐにテレビをつけ、震度を確認しました。

その後しばらくしてからだったのでしょうか、見たこともない津波のあの光景がライブで映し出されました。

こわいと言っていいのか、何と言っていいのか、表しようのない感じを覚えたと思います。

本当の初めはその後の原発のことなども知らず、ただただ驚いていました。

私の勤め先はライフラインを扱うところだったのもあり、地震が起きた後にするべきことがあり、職場でも慌ただしく仕事をしました。

いつもはかかってこない問い合わせの電話対応もありました。

同じ会社に勤める夫とは、内線電話で連絡がつき、お互い無事なのも確認できました。

地震の後、自分の通勤経路の電車は完全にストップし、地震の対応の仕事もあったので、私は外に出ないことを選び、職場に泊まりました。

翌日、自家用車で出勤した職場の先輩に送ってもらい、私は朝早く自宅に戻ることができました。

夫も明け方までは彼の勤めるビルにとどまり、その後帰途についたのですが、なかなか電車が動かず、家に帰り着いたのは翌日の午後2時。

携帯電話を充電していなかったので、そうそうに充電が切れ、携帯で連絡がつかなくなってしまいました。
なぜ充電しておかなかったのかと、私は随分責めてしまっのを今は後悔しています。

寒い思いをして必死で帰ってきたのに、ねぎらうことなく責めることだけしてしまったな、と。


その後、原発事故も起き、関東地方は計画停電の措置がとられました。

電車は動かないに等しく、動いてもいつ止まってしまうかわからない、スーパーには牛乳や納豆が消え、ガソリンスタンドに行っても給油のできないという状態がしばらくの期間続きました。

もともと心配性の夫にはこの状況は耐えがたい不安だったのだと思います。

こんな状況で過ごすうちに夫の様子がおかしい、と感じるようになりました。

普段おとなしいタイプの夫が、すごくよく話すようになり、普段しないような買い物をするようになり、その度合いは一緒に過ごすことが苦痛に感じるほどになりました。

前はほとんどしなかった電話も頻繁にするようになっていました。

6月の初め頃、前よりあまりにもよく話す夫と過ごすことに疲れてしまい、1泊だけ掛川に住む姉のところに息抜きに行ってきました。

帰宅してみると、畳2畳分くらいのスペースいっぱいに買い物してきた荷物が置いてあり、私は何だかわけがわからなくなりました。

当時、夫も私も月1回心療内科に通院していました。

翌週がちょうど診察だったので、先生にそのことを話すと

「躁鬱病かもしれないね」と言われました。

帰宅して躁鬱病に関する情報を調べると、夫の言動とかなりの部分が一致し、合点がいきました。

その後、それまで処方されていた抗うつ剤は気分安定薬に変わりましたが、処方された薬は夫の症状には合わないタイプだったらしく、言動はエスカレートし、職場にも迷惑をかけるようになっていきました。

お金をたくさんもたせておくと使ってしまうので、あまり持たせないようにしていたら、職場の方にお金を借りてしまったり。

早くにわかったので、私がお返ししに行き、謝罪してきたこともありました。

夫の職場の方々はとてもあたたかく、協力的で、何か変わったことがあると私に知らせてくれたので、本当に助かりました。

でも、同時に私は心苦しい思いをどんどん募らせていきました。

そうこうしているうちに、夫を入院治療させられるチャンスが巡ってきて、3か月ほと入院しました。

本人には病識がないため、医療保護入院でした。
保護者は妻である私。

病識のない夫はなぜ入院しなければいけないのかわからず、様子を見にきた自分の両親に早く退院させてくれと頼み、両親も私に退院させてやればいいじゃないかと言ってくる…

夫の病気のことを彼の両親にも説明しましたが、理解してはもらえず、私は追い詰められているような状況でした。

震災の影響で、私は普段より仕事が忙しく、土日出勤も多い中、入院している夫の面会や医師との面談にも行っていて、いつもヘトヘトでした。

2か月経った頃、ようやく薬が効いてきたのか、躁の症状がおさまり、自分が病気であることを夫が理解できるようになりました。

このまま病識がないのなら、一緒にやっていくことは難しく、私は離婚も考えましたが、その事態は回避できました。

震災の年の年末には夫は退院することができ、自宅療養となりました。

私はきっと必死にこの期間を過ごしていたのでしょう。
夫のことがひと段落した頃、夜なかなか眠れず、日中眠くてたまらないという日が増えていきました。

震災の翌年の4月に夫は復職しましたが、私の体調が限界になり、今度は私が休職することになってしまいました。

この頃、何か気持ちを明るくできることがないかと思い、うさぎをお迎えしたのでした。

私が自宅療養している状態が半年続いた頃、今度夫は鬱の症状がひどくなり、年末には再入院に…

二人とも調子を崩している状態になってしまい、それはそれは不安でした。

そこから2年間、夫婦とも
療養中という心もとない状況が続きました。

その後、私は復職しようとしましたが、心身をそこに向けることが難しく退職することを決め、夫はもう少し後に復職準備を始めて、昨年6月また復職することができました。

夫が躁鬱病とわかってからの私はとにかく夫の話が始まると、不安のスイッチが入り、話を聞こうとしませんでした。

躁の症状を目の当たりにしたときのショックが忘れられずにいました。

また、この一連のことで結局自分が仕事を辞めることになったということを震災のせいに、夫のせいにずっとして過ごしてきました。

このことから、いつも自信がなく、夫に怒りの感情をぶつけながら過ごし、心には大きな穴が空いたままの状態だったと思います。

数ヶ月前から「おもてなし心理学」を学んだことで、ようやくそのあたりのことにしっかり向き合うことができ、すべてを受け入れるところまでは行かないまでも、自分なりに整理して考えられるようになり、夫との関わり方を見直すことができてきました。

震災から5年経つ今、我が家にふりかかった震災はようやく復興の兆しが見えてきたところです。

東北の被災地の方々のご苦労はこんなものではないでしょう。
こんな遠くの我が家ですら、ここまで影響があるのですから。




このうさぎの置物は、震災の日に棚から落ちてきた物が当たって耳が折れてしまいました。
でも、すぐに接着剤でつけて、今も家に飾っています。

本当のうさぎをお迎えするなんて、この時は思っていませんでしたが、置物よりもずっと可愛いうさぎのみーちゃんが今はいてくれます。

震災が起こらなかったら、うさぎは飼っていなかったでしょうし、今しているアクセサリーの仕事もきっとしていなかったと思います。

夫との関わりをここまで真剣にかることもなかったでしょう。

震災は起きてほしくはありませんでしたが、その後自分のまわりに起こったことは必要があって与えられた課題だったのかもしれません。

それには感謝していきたいと今は思えます。

今日こうして5年前のことを振り返ることで、新たなスタート地点に立てるような気がします。


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